1マス目。土曜日、ご飯食べた後に嫁と外を歩きつつ話をすると、自分の中でこんな結論に至った。 「事業というものをやりたい。多分。」 この会社の経緯として前回の会社の体を終了させた時点でフリーランスでいいかなと思っていた。 ただ会社の方が仕事としてやりやすかったから存続させていただけのこと。 それから1年経ち「嫁となんかやるか」と決めてさらに半年が経った。 後付け社長みたいなもんなので本当に何やるか決まっていなかった(今も決まってはいないけど) いろいろなサービスのアイデアは出る。あったらいいなと思う「作りたいものリスト」も手元にだいぶ前から存在する。ただ動くほどの熱量はない(最近まで夜も土日も別ワークで時間なかったのもあるが)。それでも何かしないとなーとモヤモヤ。自分でいうサービスとは「何かを与えるための手法の一つ」。だからそれを作るという話をしてもその後の話が全然繋がらない。誰のために、なんのために作るのか、という熱量がないと先に進まない自分にとってはちょっと辛い。サービスより上位の概念が必要だった。 また別の観点だと、受託とかはなんか違うんだよなーと話を進めていたら「積み上がらないから」かもしれない。大変なものでも簡単なものでもサービス開発に携わればモチロン全力で取り組む。去年も半年前も一ヶ月前も一週間前も何か作っていた。自分のスキルが身についてそれはとても良かった。きっと明日も明後日も一週間後も一ヶ月後も一年後も作っている。作るものやスキル・職能は変化していたとしても。きっと辛くない、それなりに幸せそうにしている。 ただなんかそれが違うような気がした。なんなのかはよく分からなかった。 全然言語化できていないが自分の幸せっぽい何かに対して積み上がっていないような気がする。 作ったからには積み上げようぜ。そんな場所があるといいなと。 自分は火をつけられる着火型の人間だと思っていた。他には、自燃型の自ら燃えられる人、着いている火を消してまわる消火型の人がいて、自然型の人に火をつけてもらうと燃えるタイプの人間だと思っていた。多分今でもそうだとは思う。しかし、これまでの自分を振り返ってみると自燃型の人に憧れというか「俺もそうなりたい」みたいなのがありそうだった。多分恥とか、そういうタイプじゃないしみたいなのがあって出していなかっただけかもしれない。 なので、そんなこんな話をし続けた結果 輝かしい未来的な何か>ビジョン的な何か>事業>サービス>あとは頑張れ になった。考えるレイヤーを一つ上に上げることができたのかもしれない。前回の話で事業とかよく分からないということを書いたが、そりゃそうだ。考えたことがないから。ただのワーディングだろ!というのがあるかもしれないが、サービスだと「俺が何かを俺のために作る」になる、事業だと「誰かに何か良い影響やモノを渡す」というイメージ。それだとそのためになんか必死こいてサービス作るのはできる気がした。 さてスーパーのんびり進んでいるけど多少前進(ということにしておこう)。1マス進む。 2マス目。実はワタリドリ、ロゴがない。発注依頼もかけていない。
理由「名称以外何も決まっていないから 笑」 土曜日、嫁の白Tシャツに落書きをするというイベントが発生した。テーマは「HAPPY」だった。 なんかとりあえず大量のクレヨン片手に線を描いていったらこれかな。みたいなのになった。 なのでロゴの原型ができた。多分。 そのうちイラレかなんかのツールで適当に描いてみよ。さらに1マス進む。
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悟り開くためにカンボジアに行き、 戻ってきてから色々な本を読み、 それでも「何が幸せなのか」とか「何が楽しいのか」とか相変わらずモヤモヤとしている。 モヤモヤでいいのかなと受け止め始めているの半分 それでも少し焦っているの半分 という認識に至っている。 次は何だ。それでも次に何をやろうかと模索している。 カンボジア最終日に病に倒れたときに海外でもさらっと病院とか行けると助かるなーと感じていた。なのでそれをそのままサービスにしようかと検討。人の本質は善だと思いたいし、苦しんでいる人を少しでも助けたり、苦しんでいるときに助けられたりするのは良い世界だなと。 だが、改めて考えると自分は本当にしんどかったら、なんだかんだ宿泊先の人に聞いていくことが多そうではある。海外から日本に来た人は一部日本語が分からないから不安という話も聞いたが、それでもシンドかったら行きそう。最終的に着手するまでの熱量が沸いてこなかったので一旦保留。。。 模索しながらも省みるにカンボジアに行ったおかげで自分に関して分かったことがある。 それは「海外に対する未知感」と「コミュニケーションの楽しさ」である。 新しいものを見たり、知らないもの食べたり、調べたり、文化・歴史を知ったり、 その過程もその想像もワクワクするし体験するとやっぱり楽しかった。 海外の人と話をするとやっぱり知らない話がたくさん出てくる。もっと長く話ができればよりローカルな話もできそうだ。一方でプログラミングとか職の話で盛り上がることもできたり、いろんな人が同じだったり違ったりそういうのが楽しい。 なので相変わらず何やるか決まっていないけど、「海外」というのはキーワードとして盛り込むことになりそうだ。日本でも海外でも利用できるし、触れ合うことができるようなサービス。。。分からん。 そもそも事業とかサービスとは?全く分からん。アレもコレもやりたいというとても熱量があるようなタイプではない。
たまに30までに起業するって言っている強い意志を持った人もいる。ただ自分は違う。 なんとなーくこれがやりやすそうだから今やっている。だから事業とかよく分からない。 自分の本質もおそらく「モノを作る人」だから、これまで「作っている過程」とか「いかにして作るのか」とか「構造・仕組み」とかの方が興味があるし楽しい。ただ最近少しだけ感覚が変わってきて、「誰かのために」作ってみたい。というのが少し顔を出すようになった。「自分の手で」というところは変わらないのだが。 ただ今までそんなに深く考えたこともないし、業務委託や受託開発におけるお客さんは何か違う。そのモノを定義しているのがお客さんだからだろうか。とりあえず違和感がある。 だから今「楽しそうなこと」「面白そうなこと」「困っていること」などを探している。全然見つからないけど。。。自分の感覚が全ての事象に対して「楽しい」とか思うわけではない(政治とか服とかあまり興味がない)ので何かしらフィルターはあるのだと思うがイマイチぴんとこない。 興味があれば少しやってみて、楽しければ続けるし、褒められたりして嬉しかったら続けるし、やりたくなくなったらきっと違うんだろうと思って辞めるし。という繰り返しをして長く続きそうなモノに対して何か自分なりの価値を乗せてモノを作れるといいなーと漠然と思っている。 ということで「嫁とカレー100杯作る」方向になった 笑 途中で方向転換するかもしれないし、空き時間で全然関係ないプロダクト作るかもしれないけど、まぁそれはそれ、これはこれだ。 カレーブログか、ここに書くか決めてないけど、外に出せるようにしていこう。カレー。 娘に聞かれました。(あ、娘います。この話はそのうち。。) 「会社名が『ワタリドリ』なのは知っているけど、何やっている会社なのか、わからん」 ってことで、、、 ①業務委託事業主に鳥がガッツリ。 プロジェクトに参画して、お客様と共にプロジェクトのゴールを目指します。 対応言語は幅広く。 Ruby、JavaScript、Java、Go、Python、、、、 クラウドはGCP(Google Cloud Platform)とかAWSとか。。 新しい言語のキャッチアップは早いです。 最近、Haskellがブーム?? コミュニケーション能力の高めのエンジニアです。 守備範囲は広い方。何でもやります。鳥が(笑) ②受託開発事業主に鳥がガッツリ。 今は業務委託がメインになっているので、積極的には取りに行ってないですが、必要なときや面白そうな案件があったら。 規模に応じて、エンジニア集めてチーム作ります。 そう言えば、私も元エンジニアだったっけ。 前職までの経歴でいうと、前半はエンジニア。 後半はプロジェクト管理やらPM的な、、 お客様とエンジニアの通訳です。 必要になれば、私もこの辺はやるんだろうな…… ③新規事業開発事業株式会社ワタリドリになって、2人で再出発して、「何やるかはこれから考えます」の部分。 「自由に飛び回り道の体験で毎日をあふれさせる!」を目指して、何か事業を起こす。 ゆくゆくはこちらをメインにしていく予定。 鳥のいったりきたりな部分です。 今は輝かしい未来に向け、鳥のやりたいことに向け、一歩を踏み出すために、ひたすら対話。 軸はITにあるけど、「海外」「コミュニケーション」など、キーワードが見えてきた。 これは前から見えていたと思うんだけど、いろいろ話したり、体験したり、話したりして、鳥が自分で見つけたキーワードだから、大事に丁寧にしていきたい。 そんな感じで、鳥の中にある何かを紐解いていく。 「まずは動いてみること大事だよね。」 「何かを続けることって大事だよね。」 「カレー美味しいよね。」 「カレー100杯作れば何かが見えてくるかな?」 「見えてくるかもね。」 「よし、やってみよう。」 ってことで、「嫁とカレー100杯作る」プロジェクト始動中。 まとめ娘の一言がきっかけで、ワタリドリが何をしているのかをまとめてみました。
「○○事業」ってそれっぽく(笑) ワタリドリ、ちゃんと売上あげていますよー、鳥が。 あ、それを言いたかっただけかもしれない。 体調が悪いぞー!!!前日から前兆はあったものの乗り切れるかなーとか思っていたら甘かった。 トゥール・スレンで負のエネルギーを浴びすぎたか、外と中の気温差が激しすぎて順応できなかったか。 最終日にして頭痛と鼻水と熱っぽくて死にそう。 しかし、食わないと復活もしないだろうということで朝ごはん食べてチェックアウト! カンボジアはこの季節暑くて日中外歩いている人はあんまり多くない。 元気だったら川沿いを歩きながら観光するつもりだったがトゥクトゥクでパレス(王宮)へ。 トゥクトゥクのおっちゃん「帰りは何時だ?時間教えてくれれば迎えにくるぜ」 この辺も商売っ気があるというか、、、 観光客を信用しているのか、 メンドくさがりなのか、 ここで契約しておけば帰りの分も稼げるぜなのか、 どれかよく分からなかった。 パレスは基本屋外で炎天下で灼熱だったのでさらっと回って近くのホテルにあるカフェで2,3時間睡眠。 カフェで死んでたら店員さんがあったかいお湯をくれて人間の本質は善であることに感謝した。 さらなる体調不良との闘いあとは帰路なので特筆すべきことはないのだが、トゥクトゥク乗って空港に行き、バンコクに飛び5時間くらい待ちがあり、バンコクから深夜便で成田まで(取り間違って成田になってた笑)。
とりあえずほぼ全行程歩くか寝てるかしかしていないからあまり記憶はない。。。 嫁はバンコクの空港で楽しそうに探検できたそうだ。良かった。一緒に回れなかったが仕方ない。 機内食も断り機内で吐き(トイレだけど)しんどさと闘いながら成田着。 ジカ熱とかマラリアとかありそうな国だったので健康相談センターへ(出国手続き辺りにある) 38.3度くらいあって「久しぶりにここまで熱が上がったなー、そりゃ辛いわ」ということで空港内クリニックへ行き帰宅。1.5日くらい寝込んで回復。 感想 1. 暑い国でも長袖は一着は持って行きましょう。 2. 海外で病院行くのはしんどそう。 3. ジカ熱とか蚊を媒体とするパンデミックしそうなやつの検査費用は国持ち。 4. 初めて「旦那さん」「奥さん」という呼称をされ一瞬誰のことを言っているのか分からなかった。 さらっとカンボジアの歴史をおさらい①世界遺産のアンコールワットが作られたのは12世紀。意外と最近。 13世紀以降、国境のタイとかベトナムに侵略されたり、フランスの植民地になったり、日本にも侵略され、それに紛れて独立宣言したものの、日本が降伏したから、またフランスの植民地に。 当時の王様のシハヌークさんが頑張って独立運動して、1953年に完全独立。カンボジア王国の誕生。 お隣ではベトナム戦争。 カンボジアではロン・ノル主導のクーデターが起こり、クメール共和国樹立。1970年。 ベトナム軍の基地か何かを破壊するために、アメリカ軍をベトナム都の国境付近に侵略さ、そのせいで爆撃受けたりで、国民の不満もたまり反政府活動が激化。 ロン・ノル政権と共産主義勢力「クメール・ルージュ」の間で内戦があったり。 そんなこんなで耕作面積249万ヘクタールあったのが、1974年には5ヘクタールに激減し、深刻な食糧不足になっていた。 1975年にロン・ノルは国外へ脱出。 4月17日にクメール共和国は降伏、ポル・ポト率いるクメール・ルージュがプノンペンを占領。 プノンペンではクメール・ルージュを歓迎するも…… これが暗黒の時代の始まり。 さらっとカンボジアの歴史のおさらい②クメール・ルージュがプノンペンを占領した時、ロン・ルノ政権に不満を持っていたプノンペンのみんなは歓迎していた。 でもその日のうちに食糧生産に従事させるために、住民は集団農場へ強制移住させられる。 病人も高齢者も妊婦も関係なく炎天下を何日も歩かされた。 集団農場では食べ物も満足に与えられず、ひたすら農作業。 過労や栄養失調、マラリアの蔓延で人はどんどん死んでいく。 ポル・ポトの理想は原始共産制社会。 毛沢東やマルクス主義の影響を受けて、共産主義が更に強烈になった感じ。 狩猟採集社会を理想としていて、階級がなくて、富は公平に分配される世界を目指した。 石器時代みたいな、狩で獲った獲物はみんなで分けましょう、、みたいな世界。 そんな世界には医師や教師など知識階級は不要とされ殺害されることに。 「医師や教師や技術者は優遇します、国のために」っていいながら、集めては殺害していく。 「カンボジアのために!」と集まってきたのに。。。 これはやり方がひどすぎる。 しまいには、対象がエスカレートして、 「メガネをかけている」「時計している」→「知識人に違いない」→拷問して殺害。 でも、これはポル・ポトの指示じゃなくて、伝言ゲームで歪んで伝わったという話もあった。 でも、殺害されていたのは本当みたい。 大人は殺されていくし、子供の方が洗脳しやすいからって、武器を持った兵士子供、お医者さん子供、、 子供が支配するようになる。 子供が手術もやっていたらしく、当然ながら、治るものも治らず死んでしまう。 原始時代が理想なら、医者じゃなくて祈祷にすればよかったのに。。 さらっとカンボジアの歴史をおさらい③プノンペンの少し南の方に行くと今回行ったトゥール・スレン虐殺犯罪博物館。 トゥール・スレンはあとから付けた名前で、当時は秘密の場所だったから「S21」という暗号名だった。 2年9ヶ月の間に14,000~20,000人が反革命分子として収容されて、そのうち生還できたのは7人とか。 殺害するために理由が必要だからと、嘘の証言させるために拷問する。 証言したあとは、もれなく殺害。。 この場所は秘密の場所だから、収容された人を出すわけにもいかないから。 看守も忠誠を示すために残虐行為を行うしかない。 そんな看守であった彼らもS21の存在を知っているため、いつ粛清の対象になるかわからない。 結果として、多くの看守が収容され処刑されてた。 もう、いろいろ最悪。悪循環。 拷問の内容は悲惨すぎてかけません。。。。。 知りたい人は鳥がちょろっと書いている投稿を読んでね。 詳しく知りたい人は、ぐぐってみると写真付きでわんさか出てきます。 最終的にはベトナム軍によって発見。 その前にクメール・ルージュは全員逃亡した後で、残るのは遺体ばかり。 ようやく、ポル・ポト政権が終わる。 この大虐殺の結果、現在のカンボジアは高齢者がとても少ない。 参考適当にwikiをまとめたものなので間違っていたらごめんね。 もっと詳しく知りたければ、wikiでも見てくださいませw ググればもっといろいろ出てきます。 カンボジアの歴史wiki 民主カンプチアwiki S21wiki トゥール・スレン虐殺博物館に行ってみて。。せっかくだからと日本語版のオーディオガイドをレンタル。
1つ目のガイドを聞き終わった時から私は泣きそうになっていた。 最初は青い空に緑がいっぱいのお庭が映えて、外国人観光客がたくさん来るなーと。 実際は、それとは正反対、暗黒の歴史、未だに落ちない血の跡、たくさんの罪のない人がここで…… 最初のガイドは入ってすぐ、白い四角い石が並んでいる場所。 青い空と緑の植物と白い石が馴染んでいて何も考えてなかったけど、ガイドを聞き終わってわかった。 白い四角い石はお墓だった。 ズーンと何かがのしかかってくる感覚。 近くのA棟はクメール・ルージュ逃亡後に放置された遺体の写真とベッドが置いてある部屋。 私は中には入れなかった。 とてもとても悲しかったし、どんな気持ちで見れば良いのかわからなかった。 部屋から出てくる人はみんな沈黙。 その後も展示しているものに合わせてガイドを聞いて行く。 ただ見ているだけでは知ることのない情報も音声ガイドは説明してくれる。 想像を絶する内容と今いる場所で起こったという事実に、喉に何か詰まるような、苦しさを感じる。 最後の棟も目を覆うような写真や絵で、私は建物に入れず。 鳥は最後まで全部見たし、全部聞いていた。 その絵以外の撮影は全体的にOKなんだけど、全く撮る気にもなれなかった。 ずっとずっと考えていたのは、どうしてこうなっちゃったんだろうってこと。 ポル・ポトは子供の頃の体験と得た知識と成長する過程で、少しづつ少しづつ、なにがズレていって、歪んでいってしまったのかな。。そもそもどーしようもない異常者だったのか?? 同じような事、カンボジア以外でも起こっている。 共通しているのは、「目指すものはユートピア」? 理想の世界観があって、想うことがあって、だけど、それを作る手段と仲間を間違えたのか。 間違っている方向に進んでいるんじゃないかって、途中で気がついた人いないのかな、、 集団の中では「それは違う」って言うのは勇気がいるし、そこに染まってしまうと善悪の区別がつかなくなってしまうってのもあるよね。。戦争とかそうだよね。 「善」とは何か。「悪」とは何か。 何かに怯えていていたのかな。 「恐怖」で人をコントロールすることが良い方法だと思っていたのかな。 何と戦っていたのかな? 誰を幸せにしたかったのかな。 私にはわからないし、想像できない。 今回、いろいろと調べていて、ポル・ポトのwikiに書いてあった 「後妻と娘は『世間が何と言おうと、私達にとっては優しい夫であり、父でした』と語った。」 というのが、心にひっかかっている。 擁護する気持ちはないです。 でも、誰もが可哀想すぎるのではないか。。 とても良い天気が良くて緑の映える青空の下を、沈黙で下を向いて敷地内を歩いている人たち。 それもまた、異様な雰囲気だった。 こんなこと、二度と起きてほしくない。 博物館では「ここで見たものを多くの人に伝えてください」って言っていた。 伝えるのって難しいし、聞くよりも実際に見た方が良いです。 なので、カンボジアに行ったときは、ぜひお立ち寄りください。 その後、マーケット行ったり暑さの中を歩き回ったせいもあるけど、精神的にも疲弊したのか、夕方にホテルに戻ってシャワーを浴びたらそのまま朝まで寝てしまった。。 僅か一泊という短い旅であったアンコールワットを後にプノンペンに戻ってきた。三日目の朝。 この日は日本を発つ前から決めていたトゥール・スレン虐殺博物館。 とりあえず行ってみた方がいいということだったので行ってみたが。。。 ポルポトという名前もなんか小学生くらいにニュースでやっていたような記憶があるなぁくらいだった。 トゥール・スレン虐殺博物館『百聞は一見に如かず』とは良く言ったものでここはかなり衝撃。 未知の体験といえば未知の体験。知りたくもない体験。 旅行先を検討している人はアンコールワットよりこっちを入れてみた方がいいかと思う。 一体これはなんなのか。名前から推測できるかもしれないが負の遺産に該当するものだ。
日本でいう原爆ドームに近い。人類が人類に対して行った正当化されるべきではない行為が記されている。 1970年くらいから始まったポルポト政権下の行き過ぎた共産主義・思想を発端とする粛清という名の虐殺の記録。まだ生き証人が残っている割と最近の歴史。 恥ずかしながら全然知らなかった。。。 原爆は戦時中の攻撃によるもので、非の有る無しはあるにせよ外部からの攻撃であると捉えている。 しかしこれは、、、ただの政権交代によって国のトップが代わり内側から攻撃されているようなものだ。 反乱分子と見なされると投獄され後付けの証拠を尋問によりでっち上げられ最終的に殺される場所。 もちろんそんな政権が勝つようになるくらい国は退廃していたようだが。 それまでの腐敗した状況と新しい革命後の世界と、どっちが幸せになれるのか。 当時の状況だと私には判断が難しそうだ。(最初は笑顔で迎えられたらしい) またそのような大きな流れは止められないだろうし、その先に何があるかなんて誰が想像できたのか。 この博物館は当時の建物そのまま残されていて中を自由に歩ける。血のシミも床にあるし、鎖を繋いでいたであろうリングが各教室(元小学校だった)の床にたくさん埋められている。監禁されている教室は日本だと公園の汚い公衆トイレがサイズ的にも汚さ的にも想像しやすいか。(写真撮る気分にはなれなかったので撮ってない)そこに半年〜1年、、、で殺される。最終的にのべ1万人以上が収容され生き残ったのは6人。 赤道付近特有の暑さ、シャワーはないに等しい。挙句拷問を受ける日々。ムチ叩きから、水責め、酷いのだと野外に吊るされて気を失ったら糞尿の壺に顔から突っ込まれてまた吊るされるとか(これが小学校の遊具を元に作られていたのだから本当に堪える。。。) 尋問している方も反論すると逆の立場になったり、 外国から船で入ってきただけで監禁されたり、 、、、、、、ないな。 昔からいろんな人が口酸っぱくそういうのアカンよ。とは言ってもナチス、ルワンダ虐殺、南京など、他を認めず受け容れないことによる悲しいことは過去を振り返らず起こってしまう。 人を群れで捉えると恐怖なのかもしれない。集団は謎の意思があるように感じる。もしくはそうじゃないかもしれないのに勝手に判断してしまうかもしれない。ヘイトスピーチとかデモとか見ていると攻撃がこちらに向いている訳ではないのに不安になる。集団は個人よりも圧倒的にパワーがある。人間は想像(ビジョン)に向かって他の動物よりも多くの数が結束することができる種族らしい。だからこそ他を排斥するのではなく受容する方向のエネルギーであることを願うし、行動も他を受け容れ巻き込んで上に昇るようであって欲しい。 集団という観点で言うと私は日本人である。だがその前に一人の私であって、今私が話をしているのはxxx人のあなたではなくあなた自身だ。海外に住んでいた時に強く何回もそう思った。 マーティン・ルーサー・キング曰く 人間はだれでも、創造的な利他主義の光の中を歩むのか、 それとも破壊的な利己主義という闇の道を歩むのか決断しなければならない。 さて、日本は光の道か、闇の道か。 ホテルの朝ご飯朝食はビュッフェ。 日本によくあるホテルの朝食ビュッフェっぽい感じ。 フォーと卵料理はオーダーで作ってくれて、種類が結構あった。 でも、フォーはミニ丼くらいの器だから、他のものが食べられなくなっちゃう。 鳥が頼むから、私は「一口ちょうだい」w フルーツが豊富なのが好き! 3日の食事トゥール・スレン虐殺博物館に行った日なんだけど、、 朝ごはん食べてトゥール・スレンにお出かけ ↓ オルセーマーケット行って ↓ 途中でハンバーガーとアイス食べて ↓ セントラルマーケット行って ↓ 雨降りそうでコンビニ寄って ↓ ホテルに帰宅 その後、二人で朝まで爆睡。 この日はホテルのレストラン行こうかーって言っていたので、残念でした(笑) カンボジアのマーケットオルセーマーケットは混沌としすぎて、写真を1枚も取れず(笑) 積み上げられた商品が倒れそうで怖いし、通路も狭いし、暑いし、いろいろなものがごちゃ混ぜな匂い。 家電も服も食器も食材もアクセサリーもギュッと押し込めた感じ。 迷子になりそう(笑) あと、地震きたら大変だなぁ、、、って思った。 怖くて早く外出たくて、素通りして外に出てしまった(笑) セントラルマーケットは天井が高く、オルセーマーケットより安心感もあり、一応、貴金属を中央に、食材と衣服と雑貨となんとなく場所が区切られていて、歩きやすかった。 売っているものといえば、日本では100均で売っていそうな物だったり、金ピカの何に使うんだ?みたいなものだったり、なんでもあり。 ちょっとした広場で将棋みたいなゲームをやっている人もいて、人が集まる場所なのかな。 めっちゃ暑いんだけどねぇ。。 カンボジアではいろいろなところで、フルーツを剥いて売っている人がいる。 大抵が女性。 ここでも気怠げにフルーツを剥いている人、カットしたフルーツにハエが飛んでくるからなんとなくパタパタやってハエが止まらないようにしている人、皆さん、ガッツリ売ってやるぜ感はなく、緩やかな時が流れている。 混沌具合はオルセーマーケットに負けずなんだけど、食材のところはワクワクできたな〜。 鳥ダウン、暑すぎて避難最終日はそんなに時間もないので、とりあえず、ロイヤルパレス。 でも、鳥がダウンしたから、休憩のため、近くにあったHimawari Hotel & Service Apartmentsのカフェに避難。 ケーキは予想していたよりも美味しかった! ライムジュースとバナナジュース頼んで、お迎えのトゥクトゥクが来るまでの〜んびり。 鳥がずっと寒そうにしていたから、お店の人が温かいお湯をくれて、ほっこりしました♪ カンボジア→バンコク→成田プノンペン国際空港からバンコクまでの短い間に出る食事は相変わらず慌ただしい(笑) 嬉しかったのがPABLOのチーズタルト! バンコクから成田は変わらず。 「fish or sausage?」って聞かれたけど、行きに聞かれた「fish or Omelette?」と同じだった。。残念。 フルーツは美味しかったな。 日本時間の4時くらいに起こされて、食べる(笑) 初めての海外とご飯当然のことながら、生水は飲まないようにしていた。
氷ってどうなんだろう?って思ったけど、まぁいいかって飲んでいたなぁ。 何もなかったから、ちゃんと処理している氷だったのかな。 スパイシーな食べ物は少なかったから、お腹こわすこともなかったし、カンボジア料理は日本人にも合うと思う! 衛生観念を考えてしまうと、躊躇するところもあったり、とにかく暑くてマーケットの屋台は行かなかったけど、次行く機会があったら食べてみたいかも。 あと、フルーツがおいしいねー。 トゥクトゥクさんがくれたフルーツ(名前忘れちゃった)がライチみたいな感じでとても美味しかった。 フルーツ食べる旅に行きたい(笑) 羽田→バンコク羽田→バンコク 金曜日の0:20にバンコクに向かうフライト。 割とすぐにサンドイッチが配られた。 バンコクまで6時間半。0:20発だけど現地時間の04:50にする。 到着の2時間前くらいに朝ごはんで起こされる。 「fish or omelette?」 あれ?「fish or meet?」じゃないの?という、固定観念(笑) fishをもらって、いただきます。 ムニエルみたいなのと、ゆかりご飯。 タイ航空なのに和風な感じ。 ここでは、スマホをリュックに入れていたので、写真取れず。 バンコク→プノンペンさっきのフライトで2食。お腹いっぱい。プノンペンまで1時間15分くらい。 まさかのおやつ。ミートパイとあん団子? すぐ着くんだから、そんなに慌てなくても……って気分。 ミネラルウォーターももらった。 シェムリアップご飯夜ご飯はレストラン。 トゥクトゥクさんに「アプサラダンスが見れるビュッフェあるよ」って言われ、12$でそんなに高くないしどーするって考えていたら「日本人客が多いよ」って言われて、鳥が一気に興味なくなった感じ(笑) 私もあまり興味ないから、オールドマーケットに連れて行ってもらった。 おすすめは「アモック」という魚料理。 あとは豚肉とレモングラスとか生姜ぽい何かが入っているスープ。 翌日の朝食はフォーを食べた。 日本で食べるのと同じ感じ。 フレッシュジュースが美味しかった♪ 写真撮り忘れた! ランチはトゥクトゥクさんにカンボジア料理のお店に連れて行ってもらった。 観光客向けのちょっとお高めなレストランかな? カレーとお肉の串焼きみたいな。 カンボジア料理はスパイシーじゃなくて、日本人にとても合うと思う。 プノンペンに戻った日の夕食は、なぜか中華料理を食べた(笑) 前回に引き続きカンボジア旅行記Day2! 朝日の中のアンコールワット!向こうの方達(観光地だとそんなもんか?)は商売っ気が非常に強い。 Day2は朝一からアンコールワットとDay1で行けなかった遺跡群を諸々回ろうという計画をしていた。 Day1のトゥクトゥクの運転手と、宿泊先で手配した(キャンセルしたんだが)のトゥクトゥクの運転手二人が朝一ホテルの前で待機しているという珍事件がおきたのだが「ごめんなさーい」って言って終了。 大樹が寺院に巻きついてるやつを見たかったのでDay1でそれなりお腹いっぱいだったのだけど一辺倒全部周ってみる。細かいのは写真を見ていただければいいかなと。 印象的だったのは 物売りの子供達が多い。向こうに夏休みとか休日というのがどういう風に存在しているのか分からないし、学校行ってる風な子供もいたので全員という訳ではないが。。。5歳くらいの少女が「1 dollar, 1 dollar, I don't like you say NO... 1 dollar, 1 dollar, pictures, chains pair 2 dollar 2 dollar.....」とエンドレスに遺跡の終わりまでついてくるのは何というか、日本て恵まれてんだなと強く思った瞬間。 結局1ドルでも2ドルでも必要ないものは買わない主義なので徹底的に「No thanks」を連呼して買っていないのだけど。 幸せの定義とは。人間って選択肢が多い、情報量が多いと不幸せになるんだと。なんかで読んだ。
だから情報統制が厳しい北の国とかでも人々の幸福度はそれなり高いらしい。 カンボジアの売り子も、昔の日本も、もしかすると情報格差のある田舎とかも、大阪のあいりん地区の人らも、都会の人たちよりは幸せなのかもしれない。そう見えなくもない。東京みたいな大きな都市は情報が多すぎて、さらに比較できる対象がたくさんあって、あっちこっちで光り輝いて見えるのだろう。光り輝く幸せに向かって飛ぶ必要性があるように感じるからなのか、いつまでも満たされないように感じるのかもしれない。上には上がいる。 別に他人と比べたり、自分の中に幸せの定義があればいい気もするけど。大きな場所に住みたいとか、美味しいものを毎日食べたいとかそういう欲求がない訳ではないから難しい。 自分なりの幸せとかある程度見つかってはいるが常に疑問が湧いてくる。 その疑問と共にアレコレ悩みながらやりたいことをやるってのが幸せなのかなー。 結局どこかに眠っている原体験に戻るのであれば、アッチいったりコッチいったりしても最終的には売り子がものを売っていたような自分の原体験に回帰してそこに幸せがあるのかもしれないと思ったりする。 ということでその後プノンペンに戻り少しグダグダしてDay2は終了! |